
「火焔土器」とは、昭和11年(1936)12月31日に近藤篤三郎氏によって現長岡市の
その後、
これらの用語は、研究者によって使い分けられ、統一されずに使用されているのが現状ですが、ここでは「火焔型土器」という用語を使用します。
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火焔型土器の最大の特徴は、口縁部に付く鶏冠状把手と鋸歯状突起、そして、原則として縄文を使用せず、
これらの文様により、頸部と胴部上半部にはS字状隆線文および渦巻状隆線文、胴部下半部には逆U字状隆線文が描かれています。そのほか、鶏冠状把手の間には
王冠型土器も文様については、基本的に火焔型土器と同様ですが、鶏冠状把手の代わりに山形状把手が付き、鋸歯状突起ではなく
火焔型土器の器形には、深鉢形土器と鉢形土器がありますが、深鉢形土器がほとんどを占めています。鉢形土器はまれであり、出現期のものに見られます。
最盛期の火焔型土器は、以上のような特徴を必ず備えています。

火焔型土器は、縄文時代中期の中頃(約4,500年前)に出現し、そして消滅してしまった短命な土器です。東北地方南部の
その出現に関しては、北陸地方の新保・新崎式土器、東北地方南部の大木式土器など周辺地域からの複雑な影響を受けたとされています。
また、火焔型土器を特徴づけている鶏頭冠把手の発生については、中期はじめの大木7b式土器の最新段階に遡らせる考えと、中期の中頃の大木8a式土器の時期とする二つの考えが示されています。前者は、その祖形を大木7b式土器の口縁部に付く橋状突起、後者は大木8a式土器の口縁部に付くS字文に求めています。
火焔型土器は、現在3〜5段階の変遷が考えられています。出現・成立期の火焔型土器は、頸部と胴部との境にくびれがあまり見られず、全体的にずんどうな器形をしています。また、鶏冠状把手も背が低く、横長のものとなっています。文様にも、頸部に
これに対し、最盛期の火焔型土器は頸部が強くくびれ、胴部が細く引き締まった器形をしています。鶏冠状把手は、背が高く、大型のものになります。器形・文様とも非常に規格化されています。
火焔型土器は、最盛期をむかえた後、続く中期の終わり頃の土器にほとんど影響をあたえずに、突然姿を消してしまいます。その消滅の様相については、まだ解明されていません。
火焔型土器は、東日本の200を超える遺跡で確認されており、その遺跡のほとんどが新潟県内に分布しています。山形県・福島県・群馬県・栃木県・富山県など周辺地域にも見られますが、それらは新潟県内のものに比べ、器形・文様ともかなり変形したものです。
典型的な火焔型土器は、新潟県内に分布が限られ、なかでも最盛期の火焔型土器は中魚沼郡津南町から長岡市にかけての信濃川上・中流域で集中的に出土しています。
火焔型土器は、その特異な装飾性から研究の当初より、
火焔型土器は、貯蔵穴や住居跡などから出土していますが、特殊な状態で出土した例はまだ報告されていません。また、内面に炭化物(おこげ)が付着した例が多く見られることから、煮炊きに使われた土器であることは間違いありませんが、日常的に使われるものではなく、祭事などの特別な時に使われた土器であると推定されています。